ある若者が、「スラロームトリックを競うカッコイイ大会を開きたい」という話を始めました。
毎回話をする人は違うのですが、いつも同じような壁に当たって立ち消えていました。
・審査出来そうな人は皆出場したい。
・統一する基準は皆が納得するのか?
という壁です。
難しいことやったからって、それがカッコイイとは思えない。
カッコ悪い奴が勝つなんて、やる気無くす。
というイメージでした。
これらは全て、「採点する」という考えに捕らわれていたのだと思います。
あるとき、僕が思いついたアイディアは
・デモができるような奴が8人くらいが選手になる。
・一般から審査員を50人くらい募る。
・トーナメント形式で、審査員がどっちがカッコイイと思ったのかを投票して勝敗を決める。
というものでした。
アグレッシブスケートのIMYTAの話を聞いていたから思いついたのかもしれません。
このアイディアはそこで聞いてくれた人には響かなかったようで、すぐには話が動きませんでした。
でも、僕はこれならデモンストレーションのような見ていて面白い・カッコイイ大会が出来ると確信がありました。
そんな気持ちのときに、幕張の大会(2003年11月)の話が出てきたのです。
幕張カップ2003コラム
この大会の話が来たときに「やるしかない」と思いました。
自分がスタッフを集められるかとかそんなことは後で考えようと。
まず、やると決めました。
それから、関東中の公園にお願いして回る週末でした。
手伝って下さい。参加して下さい。見に来てください。
毎週、土日にどこを回るのか計画を立てて、ひたすら回って説明して、お願いして、下見してテストして…それでもどうしても、実現したものを見たかった。
沢山のスタッフ・選手に支えられてなんとか大会を成功させることが出来ました。
幕張カップ2003結果報告ページ
でも、この時の僕は、「これが本当のスタートだ」と思っていました。
この大会にお願いされて参加してくれた人も見てくれた人も、「これなら次は出ようかな」と思ってくれるかもしれない。
でも、期間を空けたらその気持ちも薄れて、僕が頭に描いている「成功」のレベルにまた届かなくなってしまう。
「今やらなくちゃ、次は何年先になるか分からない。」
光が丘パイロンズの相馬さんに相談をして、「どうしても春に大会を開きたい。占有許可を取らせて下さい。」とお願いをしました。
相馬さんは「一人で決められることではないから、皆の前でお願いをしてみてはどう?」と場所を用意してくださいました。
内容と想いを説明し、皆さんにお願いをしました。
結果的には快く承諾していただけましたが、当時の僕は「土下座をしてだって、今やらせてもらうしかない」と勝手に思っていました。
大会を開くために占有許可を取ってもらうことが決まったあとで、どういう形で話を進めたらいいのか、幕張大会でスタッフを務めてくださった方々とお話をして「協会を名乗って、運営した方が継続しやすくなる」という理由で協会を名乗ることになりました。
そうして開かれたのが「インラインスケートスラローム選手権大会 光が丘カップ2004」でした。
参加人数80名の大成功した大会になりました。
でも、この大会が成功したときに相馬さんに言われた「これで3年はやらないとダメだね」という言葉の意味を僕はこの時理解していませんでした。
翌年から僕は大会を成功させた満足感で、モチベーションが下がったままでした。
僕が世間に見せたかったものは見せてしまった…燃え尽き症候群のようなものでしょうか。
こんな気持ちのままで、パイロンズに協力をお願いなんてしていいのだろうか?
周囲の「やりましょう!」という沢山の声に押されて、そこから2年間大会を運営しました。
もちろん、沢山のお手伝いを頂いたのですが、イベントの仕事は事前準備が8割です。
誰に何をお願いしていいのかも判断できず、決断もヒアリングをしながら、自分で決定していました。
準備の8割を自分とブルマンで行っていたようなものです。
このまま続けちゃダメだ。
3回目の大会が終わった後の反省会で、僕は皆さんに聞きました。
僕はこのまま大会を続けるのが辛いです。
僕が辞めたら、大会が無くなってもいいですか?
皆が立ち上がってくれました。
その中から、理事を立候補してくれた人たちと一緒に、改めてJISSAを組織化し、会員を募集していく計画を進めることになりました。
光が丘カップ2007はこうして準備が始りました。
理事・スタッフにとっては大きな変化と挑戦が込められた大会でした。
今回の僕の役目は「出来るだけ動かないこと」だと自分で思っていました。
最初はこれをうまく理事に伝えることが出来ていなかったので、大きな混乱を呼んでしまいました。
それでも、理事の皆は自発的に動き始め、準備を進めてくれました。
光が丘カップ2007が成功したのは、理事の皆とそれを影から支えてくれた人達のおかげです。
僕は何もできませんでした。
JISSAが成熟した組織になったとしても、僕は今後も「会長」を名乗る気はありません。
僕が目指したいのは、上下関係で組織化されたものではなく、同じ夢を追う仲間が集まったチームです。
物事の決定事項の流れや、責任を取るという意味では、役割分担は必要です。
だから、あくまで「代表責任者」だと思っています。
光が丘カップ2007は僕のモチベーションを喚起しました。
僕は3年越しで自分との戦いに勝ったと思っています。
参加者の皆さんは自分との戦いに勝てたでしょうか?

uhouho

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