完全に時系列に書こうとすると、自分で混乱して筆が進まないので、テーマ毎に昔のことを思い出して書いていくことにしました。
今回は日本のスラロームのパイロン間隔についてです。ヨーロッパと日本で大きく違ったのは、パイロンの大きさだと思います。
双方、自分達に与えられたパイロンが通常のものだと考え、他のものを見たことが無いので、パイロンありきで間隔が決まって行ったのではないかというのが、僕が10年を振り返った感想です。
以前のコラムに僕は様々なパイロン間隔でスラロームを練習したことに触れました。
これは一人で練習をしていたときはそうでしたが、徐々に様々なところに出向いて、人と一緒に滑るようになり、間隔を決めるようになりました。
大体、初心者と一緒になるときは2mくらいで、自分にはもの足りないですが、それ以上狭くしてしまうと、普段からインラインスケートさえそれほど練習していない人には難しすぎて、練習する気さえ削いでしまうからでした。
そのうち、駒沢でスラロームを頻繁にやっている人達に徐々に出会い、一緒に滑るようになりました。
1998年くらいの駒沢では145cm間隔で並べられていました。
梁川氏を中心に小規模でも毎週スケーターが集まる環境ができていて、当時の僕にはとても羨ましい環境でした。
光ヶ丘公園では相馬氏達と出会いました。
当時のケイトは銀色のヘルメットをかぶっていて、5歳くらいなのに基本スラロームが全て出来る超幼稚園児でした。
広場は50cm角のタイルが並んでいたので、50cm,100cm,150cm,200cmなど様々な間隔で練習していました。
その中でも150cmが自然と表現しやすく選ばれていったような記憶があります。
葛西臨海公園では140cm間隔だったように記憶しています。
ここは今でもそのままのマーキングで滑っていると思います。
小金井公園は160cmくらいか120cmくらいだったか、他の公園とは大きく違う間隔で並んでいた記憶があります。
1998~99年くらいに、駒沢でマーキングが薄くなり正確に測りなおそうということになったときに、当時のリーダー的存在だったドクターが「測りやすいから150cmでいいでしょ」と言い出したのが切欠で、駒沢も150cmになりました。
ただ、時々、50cm間隔で何が出来るかなど挑戦的な遊びをする人も一部にいました。
基本的にパイロンが大きいことや、足を上げないで滑るのがカッコ良いという梁川氏の持論に大きな影響を受けていた我々は、ヨーロッパ系とは大きく異なる表現方法を追求してきたのだと思います。
そして、日本のスラロームで150cmが大きく広められることになった切欠が、2000年に行われた「Inline The Challenge 2000 in としまえん」(通称としまえん大会)でしょう。
スラロームのタイムレースと、トリックの採点競技が行われました。
僕のこの時の戦績は…知りたい人は調べてください(笑)
この大会でスラロームはインラインスケート業界で一つの競技として徐々に認められていくことになります。
実は1999年にも「Inline The Challenge 1999 in としまえん」はあったのですが、スラロームの競技はなかったのです。
この頃は、イベントに入り込んでいく人もデモをやる人も駒沢に集中している状態で、イベントを手伝いながら、スラロームのデモを行うことになりました。
1999年のこれらの活動が認められ、2000年の競技開催につながった側面があります。
僕も当時からイベント運営やデモに参加していました。
これを読んで、アレ?と思われた方がいらっしゃるかもしれません。
そう、この「Inline The Challenge」こそ、今の インラインチャレンジ協会 の前身なのです。

uhouho

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