屋根裏部屋

スラロームを始めた頃

1995年~1997年くらいのお話です。
前後にある程度滑れるようになり、スピンストップでなんとか止まれるようになったところで、スラロームに挑戦し始めた。初めてスラロームをやったのは、大学の知り合いがパイロンを持っていたので、一緒に教えてもらいながらやった。
彼はフォワードクロスとバッククロスができたが、僕はパラレルの基礎も分かっていない状態で、見よう見まねで曲がっていた。
パイロンを配置する間隔はとくに決めていなかったように記憶している。

彼はとても忙しい人で、一緒に滑ったのは後にも先にもこれ一度きりになってしまった。

卒業後に厚木市中央公園で練習するようになったころは、空き缶を並べていた。
間隔は2mくらいから始めて、滑れるようになると間隔を徐々に1mくらいまで狭くしていた。
レンガ敷きの路面だったので、レンガの個数で間隔を決めていた。

デモと大学の知人に見せてもらった二度だけの技の記憶を頼りに、練習を続けた。
覚えていたのは、パラレル、スネーク、クロス、バックスネーク、バッククロス、ワンフットの6つだけ。
それでも、何をどうしたら良いのか全てが試行錯誤で、全てができるようになるのに1年以上かかった。
足をどちらが前になるべきか、後ろを見るときにどちらを向くべきかから自分で考えなくてはならなかった。
このときに資料を図書館データベース、NIFTY、インターネット、ニュースグループなどを随分探したが、良いものを見つけることができなかった。

しばらくしてから、書店で「菅野美穂のインラインスケーティング」という書籍を発見した。
購入はしたものの既に書かれていることのほとんどはマスターしていた。
この書籍にパイロンの間隔が場所によってまちまち(1.5m,1.4m,1.2m,1.0mとか)であると書いてあったので、長い間隔から徐々に短くするという練習方法でいいのかと納得していた。

この頃にパラレルからバックパラレルのスイッチやクロスからバッククロスへのスイッチを試したりしていた。
当時はトランジッションくらいしか方向転換の方法を理解していなかったので、それはそれで面白がっていた。
これはトリックスラロームの原型であったものだが、これは同時期に多くの場所で発生していたという事実が非常に興味深いと思う。
別の話で詳しく書かれることになると思うが、厚木・駒沢・葛西・光ヶ丘でほぼ同時期に同じような発想をし、取り組んでいた人たちがいたという事実があるようだ。
恐らく、上記以外の場所でも起こっていたのではないだろうか?

しばらくして、オッシュマンズ町田店へ行き、アグレッシブのビデオが流れているのを見た。
スラロームのビデオは存在するのか?と、店員に質問をしてみたら、奥から一本ひっぱり出してきてくれた。
BLADE STYLE というビデオだった。
店頭で見せてもらえるというので、一通り見せてもらった。

ここで初めてオープンの存在に気付いた。
ただ、このビデオは練習方法が説明されるのではなく、滑っている姿がスローモーションになりながら、コメントでコツが書いてあるもので、いきなり完成された滑りの説明をされているものだった。
この映像の一人はマキオさん(超有名なアグレッシブスケーター)であるらしいことを知っているスケーターは少ない。

練習法がまったく分からず、一人で滑ることの限界を強く感じ始めた。

最初に行くことに決めたのは「AEROS」という大学生を中心にしたサークル。
東京ドームのローラースケートリンクで活動していた。

AEROSで出会った、ユミヒコ君のお話は次の機会に。

 

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ROLLERBLADE契約選手uhouhoです。 スラロームを中心にインラインスケートの普及活動をしています。

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